ヨガの起源シリーズ9



【老子】



前回は…



真理を理解することは、独りでは困難



ゆえに、師から教えを受ける「師資相承(ししそうしょう)」がヨガでは重んじられている



なぜなら、真理を勘違いしてしまうことが多いからです。



その人だけが、真理を勘違いするだけならまだしも…



真理を勘違いした人が、師となり教える立場になったときには多くの人を不幸にしてしまいます。



だから「勘違い」は危険であるというお話でした。



この「師資相承」というものは『老子』の中にも説かれています。



『老子』とは、古代中国の哲学者であり、思想家でもある老子と呼ばれた人物が著したとされる書物です。



また、この老子が「道教」を創設した人物とされています。



文献を見る限りでは、老子は、孔子とも近い時代に生きたようです。



しかし、専門家の間では、実在したかどうか議論されていて謎の多い人物です。



この人は『史記』という古代中国の歴史書に名前が記されています。



ちなみに、実写映画化され話題を呼んだキングダムというマンガも『史記』をもとにストーリーが描かれています。



この老子という人物の考え方をひと言でいえば…



「自然…これこそが理想の姿」



といった具合でしょう。



ただし、自然というものを明確に定義していないため勘違いされていることが多くあります。



自然回帰などが、その典型だと私は思います。



老子は、自然の大切さを説いています。



老子のいう自然回帰とは、自然との調和であり、自然の法則にかなった生き方、考え方という深い部分です。



しかし、自然回帰という言葉が、勘違いされて物資的な自然回帰のようにとらえられてしまっています。



「都会の文明的な生活には幸せは無い。人里は離れ、山の中での自給自足の生活に幸せがある」



という考えです。



しかし、老子は、そういうことが言いたかったのではないと考えます。



本当の幸せは「都会の文明的な生活」「自給自足の生活」のいずれにあるわけでもありません。



本当の幸せは、その人の心の中にあるわけです。



心が、物事に依存しないことの大切さを説いています。



都会という場所も、山の中という場所も物質です。



物質という物は、価値中立なものでしかありません。



老子は、こういった事を伝えたかったように私は思います。



今回はヨガの話しから離れ、道教的な話しになりました。



しかし道教も、本当の意味での「自然の大切さ」を説いているのです。



言葉や表現が違うだけで、本質は同じです。



表面的なヨガという言葉、道教という言葉に囚われては本質を誤ってしまいます。



本質がみえれば「同じもの」なのです。



本質が見えないことで、世界中で基を同じくする宗教同士がいさかいあったりしています。



対人関係で衝突が起こるのも、本質が見失われてしまったときです。



浅いレベル、低い次元では衝突が起こります。



しかし、より高次な次元で物事をとらえることができたら、争いは無用だと気が付くはずです。



本質を捉えられる人を一人でも多く増やしてゆく。



これが私の使命でもあり、ZERO YOGAを広めていく理由です。




白川紘


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