ヨガの起源シリーズ43

【お釈迦様の考え方⑥】





前回のヨガの起源シリーズでは…




お釈迦様の考え方…物事の観方をみていきました。




そこで出てきた言葉が『十髄眠(じゅうずいめん)』でした。




煩悩…欲の構造をつぶさにみていって煩悩が何故か起こるのかを分析したものが『十髄眠』でした。




現代でいうところの、心理学や行動学が行う実験を、瞑想による特殊な思考実験で導いたともいえるでしょう。




こうした分析結果から、人間の"業"になると突き止めたのです。




現代的に言えば、遺伝的な作用や営みのとして現れてくるものです。




身体の健康状態や精神状態、環境や人間関係です。




これが、無限に円環してループ軌道を描いて続いて行く…




始まりもなく…終わりもなく…




つまり、これを『輪廻(りんね)』といいます。




この業というものは、物事の見方や捉え方が正しくないためおこるものです。




この汚れて、愚かなる宿業というものにより、人は解脱できずに苦しんでいる。




因果の法則にも、支配されてしまい永劫に迷える衆生になるとお釈迦様はいいます。




現代を例に取り少し説明したいと思います。




例えば、学校でいじめられていたとします。




いじめに遭って、転校したり会社を変えたりする人は多いでしょう。




しかし、新しい環境に変わったのに、そこでもまた同じような人間関係が生じて、いじめられるケースも少なくないようです。




環境が自分をつくり、自分が環境をつくる。




本人の考え方や物事の捉え方、身体の癖などが周囲の人々や環境に影響を与えます。




逆も真なりです。




これを業(カルマ)と言います。




こうした時の解決策は、業から抜け出すことです。




一般的、社会的、環境的な視点からすれば「いじめ」をする側は当然悪いと思います。




罰せられて然るべきだと思います。




しかし、それだけでは、いじめられた本人の成長にはつながりません。




何故なら「いじめ」jから逃げようと学校や職を変えてもまた「いじめ」られてしまうからです。




つまり「いじめ」をする側を罰することと「いじめ」られる側の問題は別問題だということです。




何故なら、いじめられていることに、本人が気が付かなければ、いじめられていることにはなりません。




これは「いじめ」をする側を擁護しているわけでもなく




「いじめ」られている人を非難しているのでもありません。




そうではなく「いじめ」という結果を生じている業があるからというだけです。




ただの事実なのです。




この事実を正しく捉えることで、制御不能な解釈ではなく、あるべき対処法が観えてくるわけです。




「いじめ」を行なった側は、きちんと反省して、その後の人生に反省から得た教訓をいかす。




「いじめ」られた側は、いじめに遭った「自分の内側の要因」を探して改善していく。




こうして、社会という集団も、個人という本人も共に成長できる社会になると思います。




この過程の中で「いじめ」られた本人が「自分の内側の要因」をみつけて改善することが一種の解脱といえると思います。




そして、この時に「いじめ」られた本人に「自分を変えることでいじめが無くなる」という解決の視点を与えることを救世をいいます。




自分が覚り、他者を覚らせる‥自覚覚者して世界を、そして人類を救おうというのがお釈迦様の徹底的な修行でした。




そして、その後の大悟となり、捨身の動きになったといえるでしょう。




そこで、はじめてバラモン以来のインドの習静的な道、つまり個人主義な非活動的信仰という宗教になったわけです。




ここに仏教の存在意義であり、生命が宿ったといえるでしょう。




ただ単に、禅観に耽って座禅に止まるという修行は、釈迦仏教の精神とは違うということも意味しています。




そこで原始仏教をみていくと、お釈迦様の高弟というようなもの‥




例えば‥後世一つの宗教になった禅宗では、禅そのものをお釈迦様、摩訶迦葉、阿難に結びつけて形式的な戒律生活というものにこだわっていません。

(※摩訶迦葉も阿難も共に仏十大弟子の一人)




非常に活動的です。




禅の歴史、したがってヨガの歴史を調べてみると、お釈迦様の弟子たちもこれに通じた方がたくさんいます。




しかし、そうした人たちは弟子の中の代表的な地位を占めていません‥




これが小乗仏教から大乗仏教に分かれてくる所以です。




小乗は小さな乗り物だ。




自分だけを乗せる乗り物‥それではいけない。




自分と同時に、衆生を乗せて、救い導かなくてはならない。




これが、そもそもの大乗仏教の精神です。




これは、どちらがいい悪いというような善悪で解釈することは中庸を欠きます。




そして、中庸化するためには「そもそも」という視点は最低限不可欠です。




よって大乗や小乗と分かれた仏教の歴史の流れから‥




次回からは「大乗仏教×小乗(上座)仏教」を数回に分けて見ていきたいと思います。




白川紘






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ヨガの起源シリーズをまとめてご覧になれます。

https://www.zeroyoga.info/blog-1

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