ヨガの起源シリーズ42

【お釈迦様の考え方⑤】




前回のヨガの起源シリーズでは…



「人とは何か」


「生とは何か」


「我とは何か」




そうしたことに答えを出し…




自ら覚り、そして他者を覚らせるという精神に情熱を注いだ指導者




それがお釈迦様の特徴だったということでした。




それは、つまり…




「人はどうすれば堕落しないのか」



「人はどうすれば解脱できるのか」




それに対して、常に自分が尊敬し帰依(信仰)する何物かを持たなければならない。




その「何か」が『ダルマ(法)』なのだということでした。




そこで、このお釈迦様の哲学を横に広げてみていきたいと思います。




以前、『ヨガの起源シリーズ28』で十二因縁ということを記しました。




この十二因縁のはじめに「無明」というものがあります。




明無し…つまり盲(めしい)




ショーペンハウアーという人が「生きようとする盲目的意志」といっています。




人間は、みんな無意識的に「生」を求めています。




つまり、「生きる」ということが人生の大前提にあるということです。




この「生」に人は執着しているということから…




無明の一つの正体は「欲」というものであるということです。




お釈迦様はこの「欲」について様々に説いています。




その中でも、特に3つの根本的欲として…




「愛欲」(愛を求めること)

「有欲」(生存欲や生活欲など)

「名欲」(地位や名誉などもとめること)




この3つの欲があるとしています。




そして、人間はこの盲目的な欲望のために誤った方へ人生を向かわせる。




さらには、世の中に対しても、様々な弊害をもたらす。




これを「五濁(ごじょく)」といいます。





この「五濁」というものを分解すると…




第一は「劫濁(ごうじょく)」。




歴史をみてゆくと、そこには時代というものがみえてきます。




長い目で見て、人間としてとても純粋であった時代と、汚れた時代があります。




時代が汚れてくることを「劫濁」といいます。




そして、こうした時代の大衆というものは心が汚れているとして…




大衆の心が汚れることを「衆生濁(しゅうじょううじょく)」といいます。




ここでの大衆の定義は、全体主義の大衆の意味と同じで、影響力を持った人たちという意味に近いので、一般人という民衆ではありません。




もちろん、こうした影響力のある人たちから影響を受けて、民衆も汚れる人たちが増えてくるのも事実ですが、そんな時代でも純粋な人々も多くいることも事実です。




話しを戻します。




「衆生濁」が進むと、行動や心からさらに汚れが進み生命そのものが汚れはじめる。




これを「命濁(みょうじょく)」といいます。




ゆえに、様々な病気が生まれてくるとされています。




武漢発のコロナウイルスもそうした「命濁」からきているのかもしれませんね…




病気だけではありませんが、現代も経済・人間関係・病気・健康・恋愛・仕事・家庭など様々なところに苦しみを抱えて生きている人が多いと思います。




こうした苦しみの原因は「煩悩」にあると仏教ではされています。




ZERO YOGAでは、この煩悩の事を「囚われ(不自由・不自然)」と呼んでいます。




これが「煩悩濁(ぼんのうじょく)というものです。




人間はどんなに煩悩にもがいているかということを、お釈迦様が教えた有名な「煩悩濁の五濁」というものがあります。




それが、まず「貪欲」というものです。




それから「瞋(しん)」…つまり「怒り」のこと。




瞋という字は、目を名一杯、目の枠限界まで広げて目を?き出す様。




瞋恚の炎(しんいのほむら)など言ったりしました。




私心私欲で、腹を立て怒り狂う。




つまり、自分の思い通りにならないことに憤りを覚えて感情的になる自分勝手な心の状態です。




これを瞋というわけです。




それから理性を失ってしまうことを「痴」といいます。




貪・瞋・痴




こうして、周りが見えず、自分本位で自分勝手に自分都合で「今だけ、ここだけ、自分だけ」という視野狭窄に陥ります。




そして、横着になり、大切なことを疎かにする「慢」になります。




大切な真理や教え、道に素直に向き合わない。




とにかく、すべてを表面しか見ずに疑うだけで、挙句に否定する「疑」




貪・瞋・痴・慢・疑




これを「煩悩濁の五濁」といいます。




話しが脱線しましたが、最後に5つ目の濁として「見濁」があります。




この「見」とは、ただ目でみることではなく「思考や思惟」ということまで含みます。




この「見」という、ものの観方(捉え方)や考え方にも5つの汚れがあります。




一つは「我見」。




人間は、ついつい自分本位で物事を考えてしまい、自分の視点というものに執着してしまいます。




次が「辺見」。




現代でいう「偏見」と同じ意味で、物事を仔細に観察しない、一面一辺を切り取って安易に結論を出すこと。




三つめが「邪見」です。




邪な心、ひねくれた心をもって物事を考えること。




これは、もともとの意味ではなく、解釈を都合のいいように変えたりして自分の利得のために悪用したり、何でもすぐに悲観的な捉え方をすることです。




次が「見取見」。




これは、現代的にいえば先入観にあたります。




物事を、小さな世界や、ある特定の分野という小さな枠組みの理屈を持ちだしてきて、あたかも科学的エビデンス(根拠)があるように取ってつけること。




そして、最後が「戒禁取見」というものです。




これは、本当の真理が分からないで、無闇に機械的、形式的なタブーばかりを振りかざして、それが権威的であるかのように振舞うこと。




宗教や伝統芸能などで、形式ばかりにこだわって本来の意味を忘れてしまう形骸化が、これの最もです。




以上を、見濁五見といいます。




これで「五濁」出そろいましたが、これは人間の心を鈍らせるから「鈍」という字を使い、さらに人の思考を支配していくことから「鈍使」といいます。




こうなると、人はすべて間違った判断をしてしまう。




いわゆる「無明」になってしまい、真理が観えなくなってしまう。




そうしたことから、原始仏教では「煩悩濁の五濁」と「見濁五見」を『十髄眠(じゅうずいめん)』と呼ぶようになりました。




このように、お釈迦様は人間の「煩悩」というものを仔細に観察して、理解しやすい形に表現することで解決法を思索していったのです。




今回の話しの本質は…自分が何を理解しているのか、どのように理解しているのか、考える上での原則(思考の枠組み)は何なのか?




そうしたことを、自分なりにしっかり考えるという、お釈迦様の物事の考え方にあります。




お釈迦様が、何を言ったのか…表面的な言葉だけをきいても、時代や社会の価値観が異なるわけですから意味がありません。




さらに「じゃあ現代ではどういう意味か…」ということ。




そこには、大切なヒントがありますが、それも本質ではありません。




そうではなく、そもそもお釈迦様はどのような物事のとらえ方や、考え方をしてそのような答えに至ったのかということが本質にあたると思います。




そういう観点で読み返してみると、お釈迦様の本質が垣間見えるのではないかと思います。




などと…書いている私自身も、まだまだ囚われていることが沢山あり、お釈迦様のもっと奥深い本質にまではたどり着いていないと思います。




しかし、至っていないからと言い切ってしまうと、それまでです。




成長の歩みを止めない事が大切だと考えています。




今が、まだ道半ばでも、さらなる成長、精進を続けていきたいと思います。







白川紘


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ヨガの起源シリーズをまとめてご覧になれます。

https://www.zeroyoga.info/blog-1

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