ヨガの起源シリーズ30
【盲目的にならないこと。自分の人生を人にゆだねない!】

前回の『ヨガの起源シリーズ』は…
十二因縁(じゅうにいんえん)という仏教の根本思想につづき、
四諦(したい)というものをみていきました。
四諦とは…
実際の人生は限りなく苦世界だと観る「苦諦(くたい)」
生とは、様々な苦るしみが集まったものだと観る「集諦(じつたい)」
苦というものをいかに滅するか…つまり解脱するかというのが「滅諦(めつたい)」
解脱するためには、真理に照らしてみると、こうしなくてはならないとい考察が「道諦(どうたい)」
だということでした。
仏教では、苦しみなどを処理して、解脱してゆくのに…
「三学(さんがく)」
「六度(ろくど)」
「八正道(はっしょうどう)」
などという実践徳目が生み出されています。
たとえば「三学」というものは修行して解脱してゆくうえで、前提となることとして「戒(かい)」というものを守らなくては駄目だとしています。
真理に照らして…
「こうしなさい」
「こうしてはいけませんよ」
といったルールがあるわけです。
このルールを「戒」と呼びます。
そこからさらに「散乱心」…「昏沈心」…「俗心」を去って心の安定に到達しなさいとしています。
□散乱心とは…
忍耐力がなく何をやっても長続きしない、
移り気で飽き性、
浮ついており地に足がつかない、
すぐにブレる心の状態。
□昏沈心とは…
すぐ落ち込んでクヨクヨする、
消極的で何でも否定的な考えをする、
自分に自信のない心の状態
□俗心とは…
世俗的なことにひかれる、
刹那的な感情に振り回される
視野が狭く目先のことにしか目がいかない、
思考が浅くなって、世俗的なことに気持ちが向いてしまう
TVやスマホ中毒などその最もです。
こうした「散乱心」「昏沈心」「俗心」を去って安定した状態を「定(じょう)」といいます。
「定」に入ることによって、はじめて「慧(え)」というものが生じます。
「智慧(ちえ)」の慧で、真理にかなった本質的な思考や行動が伴うものです。
ただのテクニックや知識としての知恵とは次元が異なり、深淵なものです。
戒→定→慧
このように三つで一つだとされています。
つまり、定と慧を無視した戒はありませんし…
戒のな定や慧はありません。
また戒や定のない、慧もないということです。
真理に照らして、正しい思考と行動で生き…逆に真理にそぐわない思考を滅して生活する。
真理に照らすとは、ZERO YOGAでは、自然の法則にかなうということ。
それは、人間の自然な思考、行動であり心身の状態です。
つまり人間としてあるべき自然な生き方。
そんな生き方をするためには「自然な心身とはどのような状態なのか」を知ることが先決です。
偉い人が、これが正しいというから…ではダメだと思います。
人は不完全な生き物です。
どんなに偉い人、優秀といわれる人でも間違うことはあります。
その間違いに、自分の人生が翻弄されて不幸になっても、その人は責任を取ってくれません。
間違ったことを信じて不幸になったからといって、その人を咎めても幸せが返ってくるわけではありません。
不幸という結果である果実を摘むのは自分でしかありません。
そうであるならば、盲目的にいわれるがままに思考停止に陥るのではなく…
自分で、自然な心身とはどのような状態かを理解できるようになることが欠かせません。
ZERO YOGAでは、身体が自然な状態に近づいたかどうか実践検証を行います。
身体と心は、ともに影響しあっているため、身体が自然に近づくと、心も引っ張られて自然な状態に近づきます。
こうして、自分の力で検証できる判断基準を持つことは大切だと思います。
少数ですが、ZERO YOGAだけでなく、探せば世の中にはそうした検証ができるメソッドは他にも存在しています。
理屈や頭だけでなく、実践で示すこと、理解することができるものに出会ったらしかりと掴み取ってください!
白川紘