ヨガの起源シリーズ28

【脳の先にあるもの】




前回は、「無明」というものが、この物質世界というリアル感をつくりだしているというお話でした。




「意識」

「眼」

「鼻」

「舌」

「耳」

「身」




この6つの感覚を仏教では「六入(ろくにゅう)」といいます。





ZERO YOGA的にいえば…





「触(運動)覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「視覚」という5感。





それらを「意識」という第六感で吟味することで、5感というものが統合されると解釈しています。





それを0感と呼んでいます。





この、無明という目に見えない働きが、人間の生活にあらわれ、さらに知覚という認識が加味され、実際に”それ”が在るというように感じることができるとされています。





それを基に、経験というものが始まります。





この経験という、実践まで到達して、はじめて悟りとなるとお伝えしました。





知識だけだは、本当に理解したことにはならない…





知識を実践に落とし込めたとき、はじめて理解したということがいえる。





それを陽明学では「知行合一(ちこうごういつ)」という言葉で表現しています。





文武両道という言葉も「学問だけでなくスポーツもできなくては駄目だ」という浅い解釈では本物ではありません。





「知識という頭での理解を、人生という実践に落とし込む」





つまり「文とは知識」であり「武とは行動」であるということです。




ただ、これだけでは誤解を与えるため、より深く表現すると…




心を伴った知識→智恵




心を伴った行い→実践




この2つが統合されたものが「道」というものになっていくのだとZERO YOGAでは考えます。




ここで、心とは何なのか…ということが問題になります。




心の解釈は、定義が明確になっていません。




宗教、哲学、脳科学、行動学などでは定義が違います。




よってここでは、他の学問分野の解釈はいったん置いておきます。




あくまでZERO YOGAとしての心の解釈で「心」を定義したいと思います。




「心」については、いずれ改めて解説しようと思います。





ここでは、心とは脳の作用ではないとだけ言っておきます。





脳の命令で、人は意思決定(物事の判断)を行っているのは事実です。





しかし、この脳は、”精神世界”のものである心というものの意図を、”物質世界”に表すための機関だと考えます。





「心とは、身体感覚の先にあるもの」




という表現が適切だといえます。




身体とは脳、筋肉、脂肪、内臓、骨、靭帯などすべてを表します。




脳というものも、身体の一部の機関でしかないわけです。




この身体の感覚器官を5感といいます。




つまり身体全体に備わる5感が、身体感覚をつくりあげる基になっているわけです。




この5感でキャッチした情報が神経を伝って脳に伝わるわけです。




この情報を脳が処理をするという流れができています。




要するに「悲しい」「楽しい」「これを選択しよう」「これが嫌い」「あれが好き」などはすべて脳の作用で起こる感情や判断だということです。




しかし、その先にある心が実が大本になっています。




たとえば…脳にAという情報が入ってきたら、Bという感情が生まれるように…と心がプログラムしている感じに近いといえます。




脳とはAI(人工知能)と同じです。




どんなに優秀なAIでも、それをつくっている存在(AIの場合は人間です)があります。




AIをつくるとは、コンピュータ言語というもので、プログラムを設計することです。




情報の処理の仕方や、判断をどのように行うかを人間があらかじめ設定しているわけです。




このAIと人間の構図が、脳と心にあたるといえると考えます。




ただ「脳と心」という構図だけがすべてではないと考えます。




脳というものの代わりに「身体」というものを介する構図もある…




いえ!厳密にいえば「身体と心」という構図がいちばん自然な構図だったものが、科学文明が発達したことなどの影響で「脳(身体の一部)と心」というかたちに縮小してしまったと考えます。




脳は、身体の一部でしかないことは先に書きました。




元々は「身体(全体)と心」という構図であたものが「脳(部分)と心」という限られた小さなものになっているわけです。




これが、人の五感(眼・耳・鼻・舌・身)などの作用が限定的なものになっている原因です。




限定的というのは、限界・限度があるということです。




このことは、他の動物と比べるとよくわかります。




例えば、犬は嗅覚や聴覚が圧倒的に人間より広い範囲にあります。




人では感じない、香りや音を犬などの野生動物は、敏感に感じることができるます。




人間は、犬などの動物に比べるとかなり五感の機能が限定されているわけです。




この人間の五感の「感じられる」範囲のことを、仏教では「受(ジュ)」といいます。





限定はされていても、経験から限られた領域の五感を通して感覚を受け取り、それに感情というものが加わります。





これを「愛(アイ)」と呼びます。





こうして、感覚を受け取り、感情が伴ってくると、それに対する欲求というものが生じてきます。





これが「意欲(いよく)」というものです。





それを「取(シュ)」といいます。





別の言い方をすれば”実存”といってもいいでしょう。





無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取…ここに「有漏(うろ)」や「有情(うじょう)」といった「有(ウ)」…すなわち”実存”という、人間にとっての実世界が存在しているように感じるられるわけです。





この実世界に、人生というものが営まれていくわけです。





そして年老いて死んでゆく。





すなわち「老」「死」で、そこからまた「無明」に帰してゆく。





これが何度も何度も繰り返してゆく…それを輪廻するわけです。





これが、仏教根本思想の一つで「十二因縁」と言われるものです。





ここまで読むと、かなり仏教やヨガの知識が深まってきていると思います。





次回は、さらに踏み込み「四諦(したい)」というもののお話です。





白川紘

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