ヨガの起源シリーズ27

【よくわからないが存在する働き「無明」】




前回まで、数回にわたり「八正道」というものをみていきました。




八正道とは「八つの正しい道」です。




道とは…生き方、命の使い方、あり方です。




正しいとは…自然であり、美しいということ。




そして、そうした「正しい道」には八つの段階(課題)があり、それらの課題を人生を通して越えてゆく。




それが、心身をともに養うことになるわけです。




そして「本当の意味で、自然であるとはどういうことか」に気が付いて行けるわけです。




八つの課題を達成したら、それで完成ではありません。




次のステージ(次元)で、また正見からスタートします。




こうしたループが無限に続きます。




これは、人は一生、歳を重ねれば重ねるほどに進化し続けられる可能性を秘めているということでもあります。




そして、人の魂や心は、永遠に成長をし続けることができるということです。




これは宇宙の動きと如実に一致しています。




この宇宙の動きと一致したあり方に気が付く事が、お釈迦様風にいえば一種の「悟り」なのです。




そして、ただ気が付くだけではなく、それを日常という人生の中で実践できる状態まで来たときに「大悟」と呼べるものになるのだと思います。




こうしたお釈迦様の教えである原始仏教というものは「ウパニシャッド」「ヨガ」「スートラ」などというものを深く研究し、取り入れたものです。




決して、お釈迦様が何もない完全な無から作り上げた思想でも宗教でもありません。




お釈迦様がしっかりと咀嚼しながらインプットして、それらを自身のオリジナルものとしてアウトプットした結果のものです。




たとえば…




上座仏教(小乗仏教)や原始仏教の人生観、世界観のおおもとになるものに「無明」観というものがあります。




余談ですが、ショーペンハウアーはこの「無明観」からインスピレーションをへて「生に対する盲目的意志」というものを人生哲学にしています。




人の無意識の中心には、ひたすらに生きようとする意志があるということです。




さらに、深く表現すれば、理性や感性という思考を超越した、見ることも捉えることもできない動きがある…




そして、こうした動きが人間にそなわっており、ただひたすらに生きよう…という盲目的な意志になるということです。




この見ることも、捉えることもできない動きこそが「無明」というものです。




「無明」とはただの観念ではなく、動きそのものです。




動いていて捉えられないも…しかし確実に存在しているとわかっているものに「原子核の周りを飛び回っている電子」というものがあります。




量子物理学という、極限まで小さな世界の動きを解明しようという学問です。




少し、物理学の復習になりますが…




人の体には筋肉や骨といったものがあります。




たとえば、骨は主にカルシウムですが、正確にはリン酸カルシウムという分子の集合体です。




リン酸カルシウムとは、リンとカルシウムが酸素を接着剤として結合したものです。




リン(Pi)やカルシウム(Ca)、そして酸素(O)は原子と呼ばれる、分子よりも小さな物質です。




この原子が物質の最小単位ではありません。




この原子の中心には原子核というものがあります。




そして、その周りを電子という物質が飛び回っています。




ちなみに、原子核も核とは言いますが「陽子」と「中性子」というより小さな物質の集合体です。




そして「電子」「陽子」「中性子」といったものもさらに小さな物質(素粒子)の集合体です。




こうして、最小単位の物質を突き詰めていくのが量子物理学です。




この量子物理学で非常に小さな単位を観察していると、不思議な現象がたくさん現れてきます。




その一つが、先に説明した「原子核の周りを飛び回っている電子」です。




電子は確かに存在しています。




しかし正確な居場所を突き詰めようとすればするほど、どこにあるのか分からなくなるといわれています。




意味が分からないと思います。




なぜなら、人間単位の物質世界にはそういう現象は存在していないからです。




正確には、存在しているが、気が付けないといった方が正しいですが。




喩えると…




日本というに国にAさんという人が今いることは確実にわかっている事実だとしましょう。




このAさんが具体的に何県何市に住んでいるのかを突き止めようと住民票とりよせたとします。




しかし、いざ住民票を見ると、都道府県の部分がかすんで見えるわけです。




かすんでいても、どうにか都道府県が見えたとします。しかし市区町村の部分に関しては、観ようとすればするほど目がかすんでしまい読めなくなるというような現象がミクロという小さな世界ではあたりまえなのです。




こうした、不思議でつかみようのない世界が物理学という物質世界にも存在しており、これは「無明」の働きの一部だと私は推測しています。




少し脱線しましたが、何がいいたいかというと「無明」とは観念ではなく、実際に動きのあるものだということです。




動きとは、活動です。




ゆえに無明が活動として人間にあらわれて、人間の行動生活になるわけです。




これを「行(ぎょう)」といいます。




この「行」というものは、単なる働きだけでなく、知覚を伴っています。




人が行動するとき、必ず五感というもので知覚しています。




このことを「識(しき)」といいます。




物を理解するという単なる知性の働きではなく、身体感覚である五感をフル稼働して身体感覚やその先にある心で知覚するというものです。




この「行」という働きと、「識」という知覚。




これらを土台とする「無明」というものが、この物質世界というリアル感をつくりだしているといえます。




つまり、形だとか、音だとか、香りだとか、色だとか、味だとか、肌触りといったリアルな感覚です。




こうしたリアル感のことを「名色(みょうしき)」といいます。




これは、ただの五感にとどまらないため、少し異なる表現をされています。




それが…



「意識」


「眼」


「鼻」


「舌」


「耳」


「身」


この6つの感覚を「六入(ろくにゅう)」といいます。



こうした6つの感覚器官が人にはそなわっているとされているわけです。



そして、これらをもとに「経験」というものが加わり、それを「触」といいます。




これらを統合してZERO YOGAでは第0感と呼んでいます。




五感という身体のセンサーを研ぎ澄まして、突き抜けると物事を捉える視点や感覚といったものの質感が一変します。




同時に、人間の持つ本来の力というものが発動します。




頭で理解するだけでは、身体は変化しません。




本当に感覚器官が限界を突破した時には、身体まで明らかに変化が現れます。




「百聞は一見に如かず」



「百閒は一触に如かず」




この言葉がすべてを表していると思います。




すべては「知行合一」です。




「本当に理解したとは、実践にまで落とし込めたときである」という意味です。




ZERO YOGAは、この「知行合一」という文武両道を大切にしています。




「八正道」の説明は終わりましたが、もう少し仏教というお釈迦様のヨガの研究の成果をみていきながら、ヨガの理解を深めてもらえたらと思います。




もう少し…もうしばらく…仏教のお話は続きます(笑)




仏教は、ヨガとは切っても切れないものですから(笑)




白川紘

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