ヨガの起源シリーズ17

【真理にかなった思いを持つ(正思)】





前回は「正見」についてみていきました。




「正見」とは…




5感を総動員して物事を捉え




広さと、深さを伴った智慧により判断する(考える)




ということでした。




これがインプット作業にあたります。




ひとは、インプットがないと何も生み出せません。




創造とは、何もないところから生み出すのではありません。




創造とは…




二つ以上のインプットしたものを結合させること




インプットした情報の本質を見極め、時代や需要に適したものに応用させること




といえるでしょう。




無とは…何も無いということではありません。




無限にすべてが満たされた状態が「無」です。




これは、ちょっと哲学的な概念なので、いつかあらためて説明したいと思います。




とにかく、インプットがないところからアウトプットは生まれないということです。




そのインプットにあたるのが「正見」でありアウトプットが「正語」や「正業」などです。




「正語」とは言葉や文章として正しく、思いをアウトプットすることです。




「正業」とは行動という行いとして正しく、思いをアウトプットすることです。




アウトプットとは、すべて「正思」という思い・思索が表現されたものです。




「正見」というインプットがあって「正思」というアウトプットの基が創られます。




「正見」によって、真理にかなった物事のとらえ方する。




そのとらえたものを、今度は自分の心に落とし込んでいきます。




心に落とし込んだものを「今」というその時に、最適化したものに加工すること。




それが「正思」と考えていいと思います。




ここで、加工するという言葉が出てきました。




物を加工するときは、人や機械が手を加えることで加工されます。




この加工作業こそが「正思」の「思」です。




では「正」とはなんでしょうか。




それは、心に加工させることです。




心は、自然(宇宙)とつながっているとヨガや仏教などではされています。




この❝心❞というものは、ごく自然的であり、純粋なものです。




この心で加工することで、はじめて、自然な「思い」創られれます。




しかし、ふつうは心で加工することができなくなってしまっています。




その原因は、大人になるにつれて心ではなく「頭」で考えることが多くなるからです。




「頭」で情報を加工すると、結果として不自然なものが作られます。




八正道では「正思」で心の使い方を課題にしているわけです。




ZERO YOGAでは心の使い方を身につけるメソッドとして、まずは身体にフォーカスします。




身体と心はつながっているためです。




心は、目に見えません…




心は、手に取れません…




心は、つかみどころがないものです。




ゆえに、まずはわかりやすい身体を自由自在に使いこなせるようになることで、心を使えるようになるというプロセスを用いています。




身体を自然な状態にすることで、心も自然な状態になっていきます。




自然体を使う過程で、心というものが手に取るように観えてきます、そして感じられるようになります。




つまり「正思」とは心の使い方、心を使える状態だといえます。




「使われる」→「使う」にかえれたら人生はグッと楽に、そして楽しくなるものです。




お金に使われる → お金を使う




感情に使われる → 感情を使う




脳に使われる → 脳を使う




情報に踊らされる → 情報を使いこなす




あらゆる物事を「自由自在」に使いこなしたいものです。





白川紘





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヨガの起源シリーズをまとめてご覧になれます。

https://kohshirakawa.wixsite.com/zeroyoga

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

27回の閲覧0件のコメント

最新記事

すべて表示