ヨガの起源シリーズ10



【敬虔と謙虚】




前回は…



『老子』という書物を表した老子という人物の話しでした。



老子のいう自然回帰の思想と、ヨガの思想は「自然の法則に則り生きる」という深い部分では同じです。



そして、根っこである、基を同じくしているからこそ、枝葉や実も共通する部分が出てきます。



それが、師を持つことの大切さという点で「師資相承(ししそうしょう)」です。



ヨガの「師資相承」では…



「いい先生について、正法を学ばなくてはならない」


「独善ではなく、敬虔であり謙虚でなくてはならない」



ということがヨガの特徴でもあります。




「敬虔」とは…



「深く敬って、態度をつつしむさま」


「神仏につつしんで仕えるさま」



といった意味があります。



「深く敬って…」



何を敬うのかというと「師」である先生ではありません。



神仏を敬うということです。



神仏とは、宇宙の法則である真理のことです。



つまり、教えの部分です。



師を絶対とすると危険です。



なぜなら、師とは人間だからです。



人間は不完全な存在です。



ゆえに、間違えることがあります。



それが人間味であり、人間らしさでもあるわけですが(笑)



だからこそ「誰が正しいか…」ではなく



「何が正しいか」ということが大切です。



ZERO YOGA的に言えば「自然を敬い、自然を畏怖する」ということです。



自然は偉大であり広大です。



この自然に比べたら人間は小さな存在でしかありません。



自然を理解できると、自分のもつ知恵や能力など、まだまだ、ちっぽけなものだと気が付くわけです。



それが、周りからみれば謙虚に映るのでしょう。



これが真の「謙虚」というものです。



「出しゃばらず、控えめに…」



これは意図しています。



つまり自然ではありません。



「謙虚にぜずに、謙虚である」



これこそが真の謙虚だとZERO YOGAでは定義しています。



それを踏まえて、真理を学ぶ姿勢は…



「独善ではなく、敬虔であり謙虚でなくてはならない」



ということです。



そして、この心の持ち方を、純真無垢な子どものごごろだと喩えられています。



こういった教えも『老子』で説かれています。



『老子』のなかで、しきりに「嬰児の徳」として説かれています。



この「嬰児の徳」が「独善ではなく、敬虔であり謙虚でなくてはならない」と同じような意味なのです。



だから、ヨガが中国側に入ってきたとき、真っ先に共鳴したのが老荘家だったのです。



本質が見えていれば、枝葉や実の違いを認めることができるのだと考えます。



白川 紘


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